LOGIN結月内親王が「普通の大学生になるための訓練」という言葉を最初に聞いたとき、正直なところ、それほど難しいことだとは思っていなかった。
大学へ通う。
自分で電車に乗る。
自分で買い物をする。
飲食店を利用する。
友達と出かける。
文字にして並べてみれば、ごく簡単なことばかりに見える。
少なくとも、十三歳から外国語の公式挨拶を暗記し、十五歳で海外王族を交えた晩餐会に出席し、十七歳には百人以上の招待客を前に原稿を見ずにスピーチをした人間にとって、恐れるほどのことではないはずだった。
そう考えていた。
午前十時十二分。
都内某所のコンビニエンスストアにて。
「……困りました」
結月はセルフレジの前で、人生でもかなり上位に入る種類の敗北感を味わっていた。
画面には、明るい文字で、
『商品をスキャンしてください』
と表示されている。
その意味は分かる。
問題は、どこへ、どのようにスキャンするのかだった。
手元には鮭のおにぎりが一つ。
棚から自分で選んだ。
ここまではいい。
むしろ大成功だった。
ただ、そこから先へ進めない。
結月は商品を片手に持ち、画面と機械を交互に眺めていた。
少し離れた棚の向こうでは、私服姿の警護担当者が雑誌を読んでいるふりをしている。
もちろん本当に読んでいるわけではない。
彼の視線が何度もこちらへ向いているのを、結月は知っていた。
さらに、店の外には別の警護員がいる。
今日の訓練には、かなりの人数が動員されていた。
コンビニでおにぎりを一つ買うために。
その事実を思い出すと、余計に負けられない気持ちになる。
「……これでしょうか」
小声で呟きながら、おにぎりを画面へ近づけてみる。
何も起こらない。
次に、カードを置く場所らしき部分へ乗せてみた。
やはり何も起こらない。
結月は少し考えた。
「ひょっとして、声で認識するのでしょうか」
試してみる。
「鮭のおにぎりを一つ、お願いいたします」
当然ながら、機械は無反応だった。
後ろから小さな咳払いが聞こえた。
振り返ると、大学生くらいの男性が一人、買い物かごを持って待っている。
結月は慌てた。
「申し訳ありません。少々お時間をいただいております」
「いや、いいですけど」
男性は微妙な顔をした。
その顔には、「何をしているのだろう、この人は」という疑問が非常に分かりやすく書かれていた。
結月はもう一度機械を見る。
逃げたい。
しかし、ここで逃げるわけにはいかない。
これは訓練である。
何より、母から言われたではないか。
失敗したときに逃げないこと。
「あの」
背後の男性が、ついに声をかけてきた。
「はい」
「それ、ここです」
男性は自分のかごを床に置き、商品のバーコードを読み取る部分を指さした。
「あ」
「袋の裏側にバーコードありますよね。それを、この赤い光のところに」
「こちらですね」
「はい」
結月が恐る恐るおにぎりをかざす。
ピッ。
軽快な電子音が鳴った。
画面に商品名と価格が表示される。
結月は思わず顔を輝かせた。
「できました」
「できますよ、それくらいなら」
男性は笑った。
馬鹿にした笑いではなかった。
ただ単純に、この程度のことで大喜びしている結月がおかしかったのだろう。
結月は少し恥ずかしくなったが、それ以上に嬉しかった。
「ありがとうございます。助かりました」
「いえ」
「ご親切にしていただき、本当に感謝いたします」
「そんな大げさな」
「ですが、私は今、かなり困っておりましたので」
「まあ、それは見れば分かりました」
笑われた。
それでも嫌ではなかった。
名前も知らない人に、ただの「機械の使い方が分からない女」として笑われた。
そのことが、妙に新鮮だった。
男性が隣のセルフレジへ移動したところで、結月は画面の続きを進める。
支払い方法を選ぶ。
現金。
カード。
電子マネー。
選択肢が多い。
また少し迷ったものの、今日は事前に渡されていた現金を使うことになっている。
千円札を入れる。
釣り銭が出る。
それを受け取る。
そして画面に表示された。
『レシートをお取りください』
「……終わりました」
静かに呟いた。
たったそれだけのことなのに、小さな達成感があった。
店を出ると、すぐ近くの角を曲がったところで待っていた女性が近づいてきた。
黒川沙耶。
二十七歳。
今回、結月の大学生活を担当する警護員の一人である。
肩までの黒髪を一つに束ね、今日はジャケットとデニムという、ごく普通の格好をしている。
ただし、本人がどれだけ普通の服装をしていても、立ち姿と周囲への視線がどうしても普通の女性には見えない。
「殿下」
沙耶が低い声で呼ぶ。
「今日は水瀬結衣です」
「失礼しました。結衣さん」
「その呼び方、まだ慣れませんね」
「私もです」
沙耶は結月の手元を見た。
「無事に購入できたようで」
「はい」
「五分二十八秒かかりました」
「測っていたのですか?」
「警護記録です」
「コンビニのおにぎりを買う時間まで記録されるのですね」
「本番でレジ前に五分止まられると目立ちますので」
容赦がない。
「ですが、次はもっと早くできます」
「それは結構です」
「途中で親切な方に教えていただきました」
「見ていました」
「助けに入らなかったのですね」
「今回の目的は、一般の方と自然に接する訓練も兼ねていますから」
「私が困っているのに」
「命に関わる状況ではありませんでした」
沙耶は淡々としている。
結月は少し不満だった。
「黒川さんは、案外冷たいのですね」
「大学ではもっと冷たい人もいます」
「それは困ります」
「逆です。少し慣れてください」
返す言葉がない。
二人は歩き出した。
結月はさっそく袋を開け、買ったばかりのおにぎりを取り出す。
そこで手が止まった。
三角形の包装に、番号が振られている。
一。
二。
三。
「これは」
嫌な予感がした。
沙耶がちらりと見る。
「どうしました?」
「開け方が分かりません」
「番号通りです」
「一を引けばよいのですね」
「はい」
結月は慎重に一番の部分を引いた。
海苔を分けるフィルムが抜けていく。
「おお……」
「感動するところではありません」
「これはよくできていますね。海苔が湿らないように分離されているのですね」
「そうです」
「誰が考えたのでしょう」
「そこまでは存じません」
「素晴らしい技術だと思います」
「殿下」
「結衣です」
「結衣さん」
「はい」
「大学でおにぎりの包装にそこまで感動すると、かなり目立ちます」
結月はおにぎりを持ったまま固まった。
「感動してはいけないのですか」
「いけなくはありません。ただ、普通の大学生は毎回感心しません」
「初めてなら感心するでしょう」
「普通は十九歳になるまで何度も開けています」
「……なるほど」
難しい。
普通というものは、思っていたよりも奥が深い。
◇
その日の訓練は、まだ始まったばかりだった。
次は駅。
結月はこれまでにも電車へ乗った経験はある。
ただし、公務や視察で利用したときには、駅員や警護担当者があらかじめ動線を確認していた。
自分で運賃を調べ、自分で改札を通り、自分で乗り換えるという経験はほとんどない。
今日は、その全部を行う。
「では、目的地まで行ってください」
沙耶が言った。
「黒川さんは?」
「少し離れてついていきます」
「何かあったら?」
「対応します」
「迷ったら?」
「自分で聞いてください」
「厳しいですね」
「大学へ行きたいとおっしゃったのは結衣さんです」
言われてしまった。
結月は駅構内の路線図を見上げた。
見た瞬間、少し後悔した。
線が多い。
色も多い。
駅名も多い。
「これは……」
複雑だった。
外国の王室制度なら説明できる。
近代史の主要な出来事も説明できる。
英語とフランス語なら日常会話に困らない。
しかし目の前にある都市交通網は、結月の知識の外にあった。
「目的地は分かっていますね」
「はい」
「では、どうぞ」
「待ってください」
「何でしょう」
「一つ確認したいことがあります」
「はい」
「この色の線は、すべて同じ電車なのですか」
沙耶が少し遠くを見る。
「……そこからですか」
「馬鹿にしました?」
「していません」
「今、少ししました」
「していません」
明らかにしていた。
結局、結月は路線図と案内表示を何度も見比べながら移動した。
一度、逆方向のホームへ向かいかけた。
二度、乗り換え口を見落とした。
それでも誰かに頼らず、何とか目的の駅へ着いた。
改札を抜けた瞬間、達成感で頬が緩む。
「着きました」
「はい」
「思ったより簡単でした」
「途中で三度止まりましたが」
「最終的には到着しました」
「本番なら友達を二十分待たせています」
「……それは問題ですね」
「問題です」
沙耶は手元の小さなメモ帳へ何かを書いた。
「何を書いているのですか」
「要改善点です」
「見せてください」
「後ほど報告書として提出します」
「お父様にも?」
「当然です」
結月の顔色が変わった。
「もう一度やり直しませんか」
「記録は消えません」
「黒川さん」
「何でしょう」
「融通が利かないと言われませんか」
「よく言われます」
「気にしないのですか」
「仕事ですので」
強い。
この女性とは長い付き合いになりそうだ、と結月は思った。
◇
昼食は、駅前のファミリーレストランだった。
結月が「どうしても一度行ってみたい」と希望した場所である。
店へ入った瞬間から、目が忙しかった。
注文用のタブレット。
呼び出しボタン。
紙ナプキン。
セルフサービスの水。
そして、何より。
「これが」
結月は席へ着くなり、壁際にある一角を見つめた。
「ドリンクバーですね」
念願だった。
前日、父に熱弁したもの。
沙耶は向かいへ座りながら、なぜか少し疲れた顔をした。
「そうです」
「本当に何種類でも飲めるのですか」
「料金を払えば」
「途中で種類を変えても?」
「大丈夫です」
「紅茶を飲んだあとに、炭酸飲料を飲んでも?」
「誰も止めません」
「すごいですね」
「そうでしょうか」
沙耶には響いていない。
結月はタブレットでドリンクバーを注文すると、立ち上がった。
最初に紅茶。
戻ってきて三分後、今度はオレンジジュース。
さらに五分後、炭酸飲料。
「結衣さん」
「はい」
「楽しいですか」
「とても」
「それなら結構です」
沙耶はそこで初めて少し笑った。
結月も笑った。
たぶん沙耶にとっては、ごく普通の店なのだろう。
でも自分には違う。
ここには誰も、自分のために特別な食器を用意しない。
店員も、ただの客として扱う。
注文を間違えれば自分の責任で、必要なら自分で店員を呼ぶ。
そんな当たり前が、いちいち新鮮だった。
料理が届いた頃、結月は少し真面目な顔になった。
「黒川さん」
「はい」
「今日、迷惑ではありませんか」
「何がです?」
「私の訓練です。おにぎりを買うにも電車に乗るにも、何人もの方が動いてくださっているのでしょう」
沙耶はすぐには答えなかった。
グラスの水を一口飲み、それから言う。
「仕事ですから」
「それでは答えになっていません」
「では、個人的な感想でお答えします」
「お願いします」
「面倒です」
即答だった。
結月は目を丸くした。
「……そこまではっきり言われるとは思いませんでした」
「人員も必要ですし、確認事項も増えます。予定変更があれば、そのたびに調整が必要です。殿下……結衣さんが友人を作れば、その方々への配慮も必要になります」
「やはり」
「ただ」
沙耶が続けた。
「だから、やめるべきだとは思いません」
結月は顔を上げる。
「面倒だからやらない、という話なら、世の中の大抵のことはできません」
言い方が沙耶らしかった。
優しい台詞なのに、妙に現実的である。
「それに、私たちの仕事は、殿下を部屋へ閉じ込めておくことではありません」
「……そうなのですか」
「安全を守ることです。似ていますが、同じではありません」
沙耶は少しだけ視線を逸らした。
「まあ、上の方々がどう判断なさるかは別ですが」
「黒川さんは、大学へ行ってもいいと思いますか」
「それは私が決めることではありません」
「また逃げましたね」
「職業上の判断です」
「では、個人的には?」
沙耶はしばらく黙った。
結月は待った。
「個人的には」
ようやく口を開く。
「十九歳なら、大学くらい行ってもいいと思います」
それだけだった。
でも結月には十分だった。
「ありがとうございます」
「まだ何も決まっていませんよ」
「分かっています」
「それから、笑っている場合ではありません」
「なぜですか」
「そのサラダ、ドレッシングを開けていません」
結月は皿を見る。
脇に小さな袋が置いてある。
「……これも自分で?」
「普通はそうです」
「大学生活とは、自分ですることが多いのですね」
「そこに今気づいたのですか」
結月は真剣に袋を開け始めた。
◇
夕方。
宮邸へ戻った結月は、母の遥子に呼ばれた。
私室へ入ると、母はソファに座り、午後の紅茶を飲んでいた。
「今日はどうだった?」
「セルフレジには勝ちました」
「戦ってきたの?」
「かなり苦戦しました」
遥子が笑う。
「座ったら?」
結月は母の向かいへ座った。
「電車にも自分で乗りました。最初は少し迷いましたが、無事に目的地まで行けました」
「よかったわね」
「ファミリーレストランにも行きました」
「ドリンクバーは?」
「素晴らしかったです」
「そこまで?」
「お母様は感動なさらなかったのですか」
「初めて行ったときはしたかもしれないわね」
母にも「初めて」があった。
その当たり前のことが、結月には少し意外だった。
「お母様は、結婚なさる前は普通に大学へ通われていたのですよね」
「普通、かどうかは分からないけれどね」
遥子は宮家出身ではない。
結婚前は一般家庭で育ち、大学にも通っていた。
「どのような学生でした?」
「急にどうしたの」
「聞いてみたくなりました」
遥子はカップを置いた。
「特別な学生ではなかったわよ。授業に遅刻したこともあるし、試験前になって慌てたこともあるし、友達と喧嘩したこともある」
「お母様が遅刻を?」
「あなた、私を何だと思っているの」
「完璧な方だと」
「あら。そんなふうに育てたつもりはなかったけれど」
母は苦笑した。
「大学二年のときなんて、友達と旅行へ行く約束をしていたのに日付を一週間勘違いしていて、前日の夜に電話をもらうまで気づかなかったわ」
「それはかなりの失敗では」
「そうよ。ものすごく怒られた」
「どうなさったのですか」
「謝ったわ」
「それだけですか」
「それ以外に何ができるの?」
結月は答えられなかった。
謝る。
それだけ。
自分には、それが難しいときがある。
失敗しないように準備する。
間違いが起きないよう確認する。
それが自分の世界では当たり前だった。
「ねえ、結月」
「はい」
「あなた、どうしてそこまで普通の大学生活がしたいの?」
昨日とは少し違う問いだった。
結月は考えた。
友達が欲しい。
恋をしてみたい。
漫画のような青春を経験したい。
それは本当だ。
でも今日、一人で買い物をして、電車へ乗って、知らない人に助けてもらって、何となく別の理由も分かってきた。
「自分が、どのくらい何もできないのか知りたいのかもしれません」
遥子が少し驚いた顔をした。
「変でしょうか」
「いいえ。続けて」
「私は、できることが多いと思っていました。語学も勉強しました。公務もできます。初めてお目にかかる方とお話しすることもできます。でも今日、コンビニでおにぎりを買うだけで困りました」
自分で言うと少し情けない。
けれど、それが面白くもあった。
「私が知っている世界は、思っていたより狭かったのですね」
「そうかもしれないわね」
「それを知らないまま大人になるのが、少し怖くなりました」
遥子は何も言わず、娘を見ていた。
「それから」
結月は少し笑う。
「今日、知らない方に助けてもらったんです」
「どんな方?」
「セルフレジの使い方を教えてくださいました」
「それはよかったわね」
「私が誰か知らないのに」
「普通はそうでしょう?」
「はい。でも、それが嬉しかったんです」
結月は膝の上で手を重ねた。
「私はこれまで、親切にしていただくたびに、ときどき考えていました。この方は私だから親切なのか、それとも私が誰でも親切なのか、と」
口にしてから、少し嫌な言い方だったかもしれないと思った。
けれど母は責めなかった。
「今日の方は、私が誰か知らなかった。単に困っている人がいたから教えてくださった。それが、すごく嬉しくて」
遥子は静かに微笑んだ。
「だから、大学へ行きたいのね」
「たぶん」
「友達も、そういう人が欲しい?」
「はい」
「恋人も?」
「お母様」
反射的に声が高くなった。
遥子が笑い出す。
「なぜそこへ話を持っていくのですか」
「だって、十九歳でしょう」
「十九歳なら全員恋人が必要なのですか」
「必要とは言っていないわ。でも、興味はあるでしょう?」
「ありません」
「そう」
「ありません」
「分かったわ」
「本当に分かっていますか」
「もちろん」
絶対に分かっていない。
しかも母の口元が笑っている。
「お母様」
「何?」
「この話は、お父様には」
「言わないわよ」
「まだ何も言っていません」
「恋人の話でしょう?」
結月は頭を抱えたくなった。
自分の家族は、なぜこうも余計なところで察しがよいのか。
「ただね」
遥子の声音が少し柔らかくなる。
「いつか好きな人ができたら、あなたが内親王だからではなく、あなた自身を見てくれる人だといいわね」
結月は顔を上げた。
「……そんな方がいるでしょうか」
「いるかもしれないし、いないかもしれない」
「そこは『いますよ』と言ってくださるところでは?」
「恋愛について無責任な保証はしない主義なの」
「夢がありません」
「結月の好きな漫画じゃないのよ、現実は」
痛いところを突かれた。
遥子は笑っている。
「でも、だから面白いのかもしれないわよ」
「面白い?」
「筋書きがないから」
結月は黙った。
筋書きがない。
誰と出会うかも。
誰と友達になるかも。
誰を好きになるかも。
決まっていない。
そのことが、急に魅力的に思えた。
◇
その夜、結月は紺色のノートを開いた。
『大学生活で絶対にやりたい青春イベント百選』
一番最後のページへ、新しい項目を書き加える。
『百一、自分のことを何も知らない人と出会う』
書いたあと、少し考えて、その下にも書いた。
『その人と友達になれたら、もっとよい』
さらにペンを動かしかける。
その人を好きになれたら。
そこまで書こうとして、やめた。
「それでは都合が良すぎますね」
恋愛漫画ではないのだから。
筋書きはない。
誰かと運命的に出会う保証もない。
大学へ入っても、恋などしないかもしれない。
だからこそ、楽しみだった。
結月はノートを閉じる。
机の上には、翌日の予定表が置かれている。
午前九時、服装選定。
午前十一時、通称名および大学内での身分設定について打ち合わせ。
午後二時、警護担当者との移動訓練。
いよいよ「結月内親王」ではない自分を作る作業が始まる。
水瀬結衣。
まだ名前しかない、もう一人の自分。
「普通の十九歳……」
結月は鏡を見る。
長い黒髪。
母譲りの整った顔立ち。
幼い頃から染みついた姿勢。
本人には分からないが、ただ座っているだけでも育ちのよさが滲み出てしまう。
「これは……服を変えるだけで大丈夫なのでしょうか」
少し不安になった。
そして翌日。
その不安は的中する。
一般女子大生らしい服装を選ぶために集められた三人の女性職員と黒川沙耶が、結月の姿を前にして頭を抱えることになるのだ。
なぜなら、どれほど安価な服を着せても。
どれほど地味な鞄を持たせても。
結月内親王は、どういうわけか、
「庶民の服をお忍びで楽しむ、ものすごく育ちのいい令嬢」
にしか見えなかったからである。
普通の女子大生になるまでの道のりは、セルフレジよりずっと難しいらしい。
第35話 手をつなぐ理由がありません 結月は、自分が人混みを苦手としているつもりはなかった。 公務では大勢の人の前に立つこともあるし、式典や行事で人に囲まれることにも慣れている。警備に囲まれて移動する場面も多かったから、人の数そのものに圧倒されることはない。 ただし、それと「休日の駅で、一般の利用客に混ざって自分の足で歩くこと」は、まったく別の技術らしい。「水瀬、こっち」「分かっています」「いや、そっち行くと反対ホーム」「分かっていました」「今看板見たよな?」「確認しただけです」「はいはい」 土曜日の午後。 二人は、前回約束していた書店へ再び足を運んだ帰りだった。 今回は互いに選んだ本の感想を少し話し、さらに別の棚を見て回ったせいで、予定より長く滞在してしまった。結月には午後の予定がなかったため問題はないが、駅へ戻った頃にはちょうど人の多い時間帯になっている。 家族連れ。 買い物客。 学生。 観光客。 改札前を行き交う人の流れは絶えず、ほんの少し気を抜けば別の方向へ押し流されそうになる。「高瀬さん、皆さん歩くのが速くありませんか」「水瀬が遅いんだよ」「私は普通です」「さっきから三回立ち止まって看板見てる」「間違えないためです」「それで後ろ詰まってる」「……では、もう少し速く歩きます」「無理しなくていいって。俺についてくれば」「その言い方だと子供扱いされているように聞こえます」「じゃあ迷子にならないでください、お嬢様」「やはり子供扱いではあり
第34話 高瀬さんが選んだ一冊 誰か一人のために本を選ぶという行為が、これほど難しいものだとは思わなかった。 結月は日曜日の夜、自室の本棚の前に立ったまま、もう二十分近く同じ場所を行ったり来たりしていた。自分が読む本を選ぶのであれば、ここまで迷うことはない。表紙を見て気になったものを手に取ることもあれば、好きな作家の新刊を迷わず買うこともあるし、書評や友人の感想を参考にすることもある。 けれど、今回の条件はまったく違った。 高瀬湊に読んでもらいたい一冊。 そう考えた途端、目の前に並んでいる本がどれも決め手を欠いているように見えてしまう。「恋愛小説は……少し露骨でしょうか」 棚から一冊取り出した結月は、裏表紙のあらすじを読んでから、すぐに元へ戻した。 身分の違う男女が惹かれ合い、周囲の反対を受けながら関係を深めていく物語だった。普段なら好きな題材であるし、実際に何度も読み返している。 しかし、今これを湊に渡す勇気はない。 自分たちの状況を知っているのは結月だけだとしても、「なぜこの本を俺に?」と聞かれた瞬間にまともな顔を保てる自信がなかった。 次に手にしたのは、秘密を抱えた女性が身近な男性に少しずつ心を開いていく小説だった。「これはもっと駄目です」 即座に戻した。 秘密、偽名、言えない事情。 今の自分には近すぎる。 まるで、自分から高瀬湊へ「ここに答えがあります」と赤い線を引いて渡すようなものではないか。 結月は腕を組み、改めて本棚を見渡した。 そもそも、なぜ自分はここまで悩んでいるのだろう。 前の話で湊と交わしたのは、「次に出かけるなら、お互いに一冊ずつ本を選ぼう」という軽い約束だった。学校の課題でもなければ、贈答品の選定でもない。もっと気楽に考えてよいはずなのだ。
第33話 それでも二人でいると楽しいのです 初デートではなかった。 少なくとも、高瀬湊本人はそう言った。 もっと正確に言えば、「最初からデートだと決めて誘ったわけではない」という話であって、結月が完全な勘違いをしていたわけでもなかったらしい。しかも最後には、「次にまた二人で出かけるなら、最初からデートだと言って誘うかもしれない」とまで言われた。 そのため、昨夜から結月の中では評価が定まらないままだった。 失敗だったのかと言われれば、まったくそんなことはない。 楽しかった。 むしろ、かなり楽しかった。 書店へ行き、昼食を食べ、雑貨を見ただけである。恋愛小説なら一章分を使うほどの出来事ではないかもしれない。それでも自分にとっては、帰宅したあとまで何度も思い返してしまうくらいには大切な一日になっていた。「……結局、デートかどうかにこだわりすぎたのでしょうか」 月曜日の朝、結月は紺色のノートを閉じながら独り言を漏らした。 昨夜最後に書いた文章が、やけに素直だった。『デートかどうかより、高瀬さんと二人で過ごすこと自体が楽しい』『なら、次も行きたい』 読み返すと、少し恥ずかしい。 けれど消したいとは思わなかった。 その二行だけは、どう考えても本当だったからだ。 ◇ 大学へ着くと、美月はいつものように先に来ていた。「おはよう、結衣ちゃん。で、どうだった?」 挨拶の直後である。「何がでしょう」「土曜日」「もう少し世間話を挟んでもよいのではありませんか」「昨日の日曜日、聞くの我慢したんだから褒めてよ。メッセージしようか三回くらい迷ったんだよ」「
第32話 初デートではない、と高瀬さんは言いました 「デートではない」と言われたあとに、その相手と二人きりで昼食へ向かう時間ほど、扱いに困るものはないのかもしれない。 結月は、その事実を身をもって学んでいた。 ほんの数分前まで、自分は休日の街を高瀬湊と並んで歩いているだけで楽しかった。大型書店では好きな本について話し、くだらないことで言い合い、いつもの大学とは少し違う服装を褒めてもらった。それだけで胸の奥がふわふわと落ち着かなくなり、もしかすると今日は、自分がこれまで漫画やライトノベルの中で何度も見てきた「初デート」に当たるのではないかと考えていた。 だから本人へ確認した。 父の「なぜ本人に確認しない」という、恋愛にはまるで似合わないほど合理的な助言を採用した結果だった。 そして返ってきたのが、『別に、そういうつもりじゃ』 である。「……」「……」 二人の間に、先ほどまでなかった沈黙が生まれていた。 湊は少し前を歩いている。 結月は半歩遅れて、その隣を歩いていた。 別に怒ってはいない。 少なくとも、怒る資格はない。 勝手にデートかもしれないと思ったのは自分だ。湊は最初から「本を見に行こう」としか言っていないし、「デートをしよう」と誘ったわけではない。 それなのに。 胸の奥には、薄い紙で指先を切ったときのような、小さいくせに無視しづらい痛みが残っていた。「水瀬」「はい」「さっきから静かじゃない?」「そうでしょうか」「そうだろ」「本を見たので少し疲れただけです」「一時間前まで、あのフロア全部見そうな勢いだったの
第31話 これはデートなのでしょうか 水瀬結衣として大学へ通い始めてから、結月は数え切れないほど「初めて」を経験してきた。 初めて友人と学食で食事をした。 初めて大学生の男性と二人で昼食を取った。 初めてアルバイトをした。 初めて自分で得たお金で誰かに飲み物を奢った。 初めてプリクラを撮った。 初めて相合傘をした。 そのたびに緊張し、失敗し、思っていたものと違うと知り、それでも最後には「経験してよかった」と思ってきた。 だから今回も。 ただの新しい経験。 そう考えればよい。 はずだった。「……こちらでしょうか」 土曜日の朝。 結月は自室の姿見の前で、三着目のワンピースを身体へ当てていた。「いえ」 数秒考え。「少し気合いが入りすぎているような」 ベッドの上。 一着目。 二着目。 椅子の背。 候補から外したカーディガン。 机の上。 アクセサリーが二組。 普段の大学生活では考えられないほど、部屋が服で散らかっている。「……こちらのほうが自然でしょうか」 四着目。 薄い水色のブラウス。 白に近いベージュのロングスカート。「でも、大学でいつも着ているものとあまり変わりませんね」 それが良いのか。 悪いのか。 分からない。 結月はスマートフォンを見る。 昨夜。
第30話 これは恋ではありません、と言い切れなくなりました 翌朝、結月は目を覚ますと、昨夜閉じたはずの紺色のノートをもう一度机の上へ置いた。 昨日、自分で書いた文章が気になって仕方がなかったからである。『高瀬さんも「分からない」』『私も「分からない」』『でも、二人とも相手が他の誰かと付き合うのは少し嫌』 そこまで書いてしまった。 しかも最後には、自分自身で「かなり分かりやすいのでは」とまで考えた。 朝になれば冷静になれるかもしれないと思ったのだが、残念ながら恋愛感情というものは一晩眠った程度では都合よく整理されてくれないらしい。「では、最初から確認しましょう」 誰に言うでもなく、結月は椅子へ座った。 机の上には、紺色のノート。 窓から差し込む朝の光。 そして、これから自分自身へ行う予定の、あまりにも個人的な検証。 公務なら資料の確認は得意だった。事実を並べ、状況を整理し、必要な結論を導く。曖昧な表現を避け、感情と事実を分けて考える。 ならば恋愛も同じように分析できるのではないか。 結月はそう考えた。 この時点で既に少し間違っていた。 ◇ 最初の記録。『昨日ぶつかった男。かなり失礼』 結月はその文章を見て、少し笑った。「これは間違っていませんね」 今でも失礼である。 そこは変わっていない。 さらにその下。『笑った顔は少しだけ悪くない』 結月は眉を寄せた。「……これは」 かなり初期。 まだ知り合って間もない頃。